【終戦の日】東京大空襲で実姉を亡くし戦後4人の娘を産み育てた母方の祖母の話
いつの間にか「終戦記念日」から「終戦の日」になっていたんですね。確かに何を記念しているのかと問われれば回答に困ります。終戦の定義も国によって異なるようなので歴史というものは難しいです。
私がまだ小さかった頃は、祖父母の代が実際に日本兵として戦争に行っていたり東京で空襲を受けていたリアルガチの世代なので日本での戦争(第二次世界大戦)は割と身近なテーマでした。とはいえ高度経済成長期もバブル経済期も過ぎていたので、日本全体の景気は今と比べれば絶好調で東京一帯が焼け野原だったという話は信じられないほどに再生と発展を遂げていました。
物事が時間の経過とともに風化するのは自然な流れであってわざわざ蒸し返す必要がない事柄もあるかもしれません。それでも私は、こと戦争に関してはせめてこの時期くらいはきちんと考えてみようと毎年勝手に自分に課しています。
以前にも書きましたが、私の母方の祖父は私にだけ「お腹を撃たれた」と言ってお腹の銃創(別の病気での手術痕の可能性の方がおおきいらしい)を見せました。母による別の親戚からの屈指の聞き取りによると「お腹ではなく足首」という新情報も出ましたが、なぜまだ幼稚園児の私に「銃で撃たれたお腹を見せた」のか今でもずっと疑問なのです。それは私の母、つまりは祖父の娘自身も父親から戦争の話を具体的に聞いた記憶がなく「親がひとを殺したかもしれないという事実をこどもに聞かせたくなかったのでは」という憶測も飛んでおります。
超親バカ的観測では「いとこのなかでいちばん賢かったから」という理由らしいです。それならそれで嬉しくもあり後世に伝える責務が生じます。
関東大震災 1923年(大正12年)9月1日
第二次世界大戦 開戦 1939年(昭和14年)9月1日
第二次世界大戦 終戦 1945年(昭和20年)8月15日
高度経済成長期 1955年頃から1973年頃
バブル経済期 1986年頃から1991年頃
振り返ると戦地に行った祖父の話には割と興味をもって聞き取りをしているのに、祖国で待っていた&守っていた祖母の話はあまり聞いていなかったなと思いまして改めて母に教えてもらいました。
断定的に書き留めている部分もありますが本人から聞いたわけでもなく母も詳しくは知らないので本当かどうかはわかりません。
震災にも戦災にも耐えた御神木がある
母方の祖母は大正7年の1918年に千葉で生まれました。幼少期にすぐ東京に住まいを移しましたが、両親が早くに亡くなったこともあり実姉が親代わりでした。
5歳の頃には関東大震災(1923年/大正12年9月1日)を経験。20歳の頃には第二次世界大戦(1939年/昭和14年9月1日)が開戦。実姉の嫁ぎ先である深川に身を寄せていましたが、東京大空襲で姉を亡くしました。食料もなく着物を売って得たお金で農家さんに頼みに行くも食べるものがないのはみな同じでちょっとしか分けてもらえなかったとのこと。その後は実兄と暮らし数年後に祖父と結婚して戦時中に子(私の伯母)を授かりました。
終戦は1945年(昭和20年)8月15日で27歳の頃。ここまでざっとまとめただけでも壮絶な青年期を生きていることが伺えます。
忘れてはならない4つの日
毎年6月23日 沖縄慰霊の日
毎年8月6日 広島原爆の日
毎年8月9日 長崎原爆の日
毎年8月15日 終戦記念日
私の母が4人姉妹の末っ子として生まれたのが終戦の約5年後でした。そのため贅沢はできなかったようですが復興とともに育ってきた世代でもあり自身でも「ある意味あまやかされた(戦争を経験した親世代からしたら子世代に苦労させたくないため)」世代でもあるそうです。そういう時代だったので男の子が欲しかったらしくそのため4人姉妹なのですが、結局末っ子も女の子だったことで祖母は姑から「女腹ね」と嫌味を言われたとか。周りのおとなたちが望んでいた性別でなかったということはまだ小さかった娘たちにも伝わってしまい、特に年子で生まれた3女は(男性に負けないように)自立心や自己肯定感が高すぎ、4女は(男性が苦手なのに)寂しがりで自己肯定感が低すぎという気難しい性格に育ちました。
1955年頃から1973年頃とされる高度経済成長期は壮年期である40~50代でいちばん子育てに忙しい時期だったかもしれません。祖父は戦争から帰ってきてからは病気がちだったらしく入退院を繰り返していたため4人の娘を育てながら夫の介護もするというマルチタスクを生きていました。そのため私の母(4人姉妹の末っ子)からすると甘えたり頼ったりできない状況がストレスになったことは今でも自覚しているようです。
祖父と比べると遊んでもらうというよりは世話してもらうことの方が多かったため、さすが母の母だけあってたまに言動が煩わしい時もありました。それでも一緒に祖母のベッドの中で横になりながらディズニーの絵本(確か『おしゃれキャット』しかなかった)を読んでくれたり、祖父母の自宅の最寄り駅とスーパーが同じ方向だったので食料品の買い出しのついでに駅まで送ってくれホームが見える場所からずっと手を振ってくれていました。今でもその場所に行くと「いつもあそこから手を振ってくれていたな」と生前の祖母の姿が鮮明に思い出されます。
4人の娘が結婚して嫁いでいき孫が増えてからは親戚で集まりごとがあっても台所で家事ばかりしている印象もありました。晩年は長女との同居がうまくいかず養護老人ホームに入居しましたが、認知症が進み社会的な行動が取れなくなってしまったことに加えて施設内の同居者にいじめられてしまったらしく食堂で食事も摂れなくなりました。私の名前も間違えるようになり、職員さんの隣で黙々と折り紙などの手遊びに取り組み3時のおやつなどを用意してもらって食べている姿はまるで小さなこどものようでした。
私は正直そんな祖母の姿を見るのがつらくなってしまい、もう少し足繫く通って顔を合わせられるはずでしたが間もなくして亡くなりました。それもまたひまわりが似合う強い日差しと不愉快な蒸し暑さが残る真夏の日のことです。
私にとってこの季節はさまざまな"生きざま"と"死にざま"を思い出す季節です。壮絶な時代を乗り越えて大往生した祖母ですが、果たしてしあわせだったのだろうかとふと思うことはよくあります。祖父が紳士で理想の老夫婦感はあったので、少なくとも祖父が生きている間はしあわせだっただろうと思います。
生きねば
参考引用:
宮内庁 ホーム > 皇室 > ご公務など > 行幸啓など(国内のお出まし) > 戦没者慰霊(https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/odemashi/irei.html)2024.8.15
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