【終戦記念日】私のおじいさんの戦争物語
日本においては2021年8月15日で第二次世界大戦の終結から76年。当時を鮮明に記憶している世代は少なくなり、ましてやそのこどもに当たる世代も既に高齢者。というわけで聞けるうちに私の母が伝え聞いた戦争時代の話の聞き取りを行いました。が、残念ながら「両親と戦争の話をすることはほとんどなかった」「両親としては話したくないことも多かったのだと思う」という回答。それでも少しは「聞いたことがある」程度のこともあるようなので、頑張って思い出してもらいました。
母方の祖父の場合
私がまだ幼稚園にも通っていたかいないかもわからない幼少期は電車ですぐだったということもあり、よく母の実家に遊びに行っていました。母からすれば超高スパンの帰省です。
母方の祖父の配属先は陸軍だったようで、親戚一同が遺品整理に集まった際には軍馬に乗った兵隊姿の祖父の写真を発見して親族一同「かっこいいねぇ」と見惚れていたことがあります。確かに『凛々しい』という言葉がぴったりの男前(今ならイケメン)で当時もかなりモテていたとかなんとか。家族の贔屓目もありそうですが。ただ、なぜそんな立派な写真を撮ってもらっていたのかは謎。出兵先は青島(チンタオ)だったそうです。徴兵検査では甲種合格というのが語り草だったとのこと。戦友会との付き合いもよく、戦後は守衛をしていた祖父を見た知り合いが定年まで勤められる割と大手の就職先を斡旋してくれたそうです。

私の祖父は私が小学校に入る前に亡くなったので『よぼよぼ』の時の祖父しか知りません。母の話によると終戦後の食糧難や衛生などが原因でこどもを4人持てるほど元気でも病気をすることが多く(今考えると病弱でありながら5人目にも挑戦したらしく普通にすごい)入退院を繰り返し日本で開発初期の胃カメラを飲んだかもしれない人物だったそうです。
一方の祖母は小さい頃に親が亡くなっていたため実姉が妹(祖母)も一緒に嫁ぎ先に連れて暮らしていたそうなのですが、栃木県に疎開していた祖母は東京大空襲を免れたものの深川区(現在の江東区)に住んでいた姉は空襲で亡くなってしまったそうです。そのため受け入れてくれた家では肩身の狭い思いをしていたとのこと。農家に着物など少しでも売れそうな物を持って行っても全然食料に変えてもらえない厳しい時代。祖父母の出会いについてはよくわかりませんが、なかなか妊娠できず戦後に医者に診てもらっていた(今で言う妊活)そうなので、朝ドラなどでよく観るような出産を控えた夫婦のもとに赤紙がきて絶望に陥るというようなシチュエーションとは違ったようです。私の母は4姉妹の末っ子ですが、長女(私のいちばん上の伯母)も戦後生まれです。
ちなみに母が祖母に「どうして戦争に反対しなかったの?」という素朴な疑問を投げかけたところ「とてもそんなことが言える雰囲気ではなかった」とのこと。いわゆる非国民の烙印を押される時代ですね。
とある日、祖母と母が台所にいる時をあえて見計らってか突然「ほちょこちゃん、ちょっと…」と祖父に呼ばれ急にべろんとしわしわのお腹を見せられました。70歳を過ぎていたのと、もともと痩せ形でからだも弱かったため手術痕も多かったのですが「これ…これね」と指で示した部分は何かで突き刺されたかのような傷跡で凹んでいました。すると若干小さい声で「これね、おじいちゃんが戦争に行った時に銃で撃たれた痕なの」と何故か誇らしげに話し始めました。当時の私は「戦争」がどのようなものかは漠然とは理解していたと思いますが、銃創をまるで勲章かのように見せてくる祖父の姿を見て「ふーん」くらいのリアクションしかとれませんでしたが「(おそらくこれはすごいことなんだろうな)」とは感じていたように記憶しています。当時は正直退屈というか「銃で撃たれた」という平成では考えられない話だったのであまりこちらから何か聞くこともせず。祖父もそれ以上は特に口にはしませんでした。
母や伯母に確認してもそんなことを伝え聞いた事実は全くないそうで、①まだ小さい私は盲腸の手術の痕を「銃創」と嘘を吐かれてからかわれた、②娘たちにも言えなかった秘密を「戦争」もよく知らない孫世代に伝えた、などの説が浮上。戦地で撃たれたのが本当であるとすれば、もしかすれば他国の軍隊に対しても同様の攻撃をしている可能性もおおいにあるので、実子たちには言えなかったのかもしれないという憶測も飛び交いました。未だに真相は私の記憶の中にしかありません。
父方の祖父の場合
父方の祖父母は私が生まれた時には既に亡くなっていたので詳細はわかりませんが、祖父は終戦まで釣りをしていたとかなんとか。飛ばされた戦地がかなり平和だったらしくのんびりしていたら戦争が終わった…という凄まじい強運??の持ち主。南国でお魚をいっぱい釣って食べて美味しかったらしいです。まるで夏休みの絵日記。終戦後は結婚してこども(私の父や伯母)も生まれたものの、あまりきちんとした仕事には就かず芸者遊びが趣味で妻(祖母)をよく泣かせていたという母方の祖父とは正反対の武勇伝しかありません。

* * *
いずれにしても戦争という激動の時代を生きて乗り越えてきた祖父母らのおかげで今の私がここに存在するというわけであります。母方の祖父の晩年は孫を連れて娘たちが遊びにくるので最初は喜んでいたようですが「疲れた」と漏らすことも多くなっていたそう。そのため末娘であった母は憤慨していましたが、それでもお嫁に行くまでは3人で暮らし父母の愛情を受けていたのは確か。私もいとこの中では末っ子だったので、父が遺したホームビデオには祖父が私につきっきりで何かを食べさせてくれたりあやしてくれたり危険なことがないように見守ってくれている姿が映っていました。最新のステレオを購入した際には私を呼んでよく自慢していました。一緒のお布団で寝たこともありましたが、まだ小さい私はぐずって「おかあちゃんがいい」と逃げていました。
先祖の「生きる」力によりこうして現代文明の利器であるパソコンやスマホを活用したインターネット技術で快適な生活を享受しています。と言いたいところですが、残念ながら今は絶対に教科書に掲載されるレベルの災害級の疫病の時代。仮に私が祖父母の立場になったら後世に対して今の時代をどう説明してあげられるのだろうと思うところはあります。その前に結婚や出産と課題は山積みなのですが、戦中戦後という時代を経てもなお4人娘を育てあげ全員嫁に出したという祖父母に対してはこの歳になると「すげー!!」と思います。と同時に、今この世に生きている人々はみんな強運と奇跡のなかで生き残った人間の末裔なのだと思うとちょっと感慨深くもなります。無論、戦争で犠牲になった方々も後世の命を繋いでいるのは同じこと。祖母の姉も空襲で死亡していますし、仮に祖父が銃撃を受けたのが真実であれば同じ部隊や相手の部隊で戦死者が出ていても不思議ではありません。なぜ命を粗末にしてはいけないのか、という普遍的な問いに対するひとつの答えになり得るのかもしれないとも感じました。
私にとって特に印象的なエピソードを遺して逝ってしまった母方の祖父は先祖でいちばん敬愛するひとです。母から言わせると機嫌が悪かったり厳しい面もあったと娘なりに不満も多かったようですが、温厚で紳士的な男性だったと思います。少なくとも私の父よりは立派な男であり夫であり父ではあったようです。このお盆には両家のお墓参りにでも行こうかと思いましたが、がっつり電車に乗って都内をぐるぐるしないといけないのでコロナのことを考えるとちょっとこわい。
みなさまも、もし聞ける環境にありましたら今のうちに自分の先祖のエピソードを聞いておくのも「生きるヒント」みたいなのが得られると思うのでおすすめです。
私が得た知恵??としては母方の祖父のような優しいイケ紳士と結婚したい
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