スピッツの歌詞をエロスに考察する部→1stアルバム『スピッツ』編
以前にド素人が某音楽雑誌や某カルチャー雑誌などのスタイルを意識した生意気な記事を書きました。
スピッツの世界観には思春期まるだしの高校生の頃に惹き込まれてしまったがゆえ、実は私の中ではかなりセクシュアル??に捉えているところが多かったりします。耽美的というか官能的というか、特に直球でエロい歌詞でもないのにエロく解釈することでより美しく感じるような気がしてしまう。まさしく「イマジネーションを耕すようなシュールな歌詞」(渋谷, 1998, p7)です。あとは思春期の頃からの聴き方のクセみたいなものなので、マスコミやファンの間でも「草野マサムネさんの描く歌は実はエロい!」という都市伝説めいた話もよく聞きますが、ここでは完全に私個人の解釈でスピッツの歌をよりエロスに聴きたいと思いました。私に力量があれば既存のアルバムなども網羅していきたいです。
死ぬこととエロス
なぜか「死」と「エロス」は対だったり同一になって語られることが多いですが、それについてもいろいろ調べたり勉強すると面白かったりします。例えば1995年のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が好きなひとはよく知っているかと思いますが「リビドー(libido)※1」や「デストルドー(destrudo)」や「タナトス(thanatos)」などのフロイトの精神分析学ちっくな言葉は馴染み深いかもしれません。
※1)フロイトの精神分析の用語で、性衝動をおこすエネルギーをいう。性欲といっても彼の場合、幼児期にも認められる広い意味であるが、晩年には生の本能に役だつあらゆる心的エネルギーと合体させた。ユングはリビドーをもっと広く生命のエネルギーと考えた(粟田・古在, 1979, p250)
デストルドーとタナトスに関する解説は専門書ですらあまりないのでここでは省きますが概ね「死への衝動や本能」といったところ??らしい。難しいです。
だいぶ昔にプラトンの『饗宴』という本を読んだことがあり今でも自宅の本棚で埃をかぶりつつあるのですが引っ張り出してみたところ、表紙から引用して良いのかは不明ですがいちばんわかりやすかったのでご紹介。
(前略)ソクラテスが、エロスは肉体の美から精神の美、さらには美そのものへの渇望すなわちフィロソフィア(知恵の愛)にまで高まると説く。(後略)
―プラトン著『饗宴』
特にマサムネ氏は94年に「俺が歌を作るときのテーマは“セックスと死”なんだと思う」(渋谷, 1998, p89)と語った経緯があるので、初期の曲は余計にその傾向が強いようにバイアスがかかってしまっている気がします。ご本人は書籍のあとがきで“「死とSEX」なんて言っても発言に重みがない”と98年の時点で過去の自身の発言を回顧していますので、外野が「スピッツはセックスと死がテーマなんだよ!!」と言ったところでなんか違うのかなとも思いますが。
あとは私がインタビューなどを読み返して感じた主観として、「不思議」「恐怖」という言葉で「セックス(性)」や「死」について語っているので、抑圧された性衝動が爆発したロックというよりはあまり触れてはならない未知なものへの好奇心やそれ故の美しさみたいなものがへんてこりんな歌詞になって表出しているのだろうかと解釈したりもしました。
特に徐々に歳を重ねていくと現実に見えてくる「死」についても、思春期や高校生くらいの頃の多感な時期は意外と非現実的で危ない意味でなく好奇心の中心になることもあります。少なくとも生きているひとの中で「死」について全く考えたことがない方はいないかと思いますが、おとなになって現実的なことが中心になる生活だといちいち死ぬことについて哲学的に考えている余裕はなくなりますが、これも学生時代の特権なのかもしれません。
季節ごとのエロス
スピッツの歌には割と四季がかっちり入っているような気がしています。そもそも歌は「春夏秋冬」に合わせて暑いほにゃらら寒いほにゃらら、白いシャツや水着やコートやマフラーなどどこかしらの季節を想起させる歌詞が入っていることの方が多いので(特に季語を持っている日本??)スピッツだけに当てはまることでもないのですが、こうして季節の描写が入ることによって「四季のエロス」を表現することに大成功している気がしてなりません。
夏はどうしても海!水着!ひと夏の恋!といった燃え上がるような淫靡的な歌が多いですが、スピッツも夏のエロスを表現することに幾度となく挑戦するもどこか気持ち悪いんですね(←本当にものすごく尊敬を込めております)。例えば湘南の海や砂浜などで繰り広げられる直球な性愛を歌うのではなく、どこか遠回しというか妄想的なものが多い。
もはや押し倒してしまえばいいものを、ずっと君の横顔を見ながら汗の匂いを嗅いでいるだけ…みたいな感覚のままで満足している。童貞をこじらせているというよりは、そのギリギリの感覚に浸ることでいちばん快感を得ているような新しい変態感すらある気がします。
書籍のインタビュー記事のなかに「いくぢなし」(渋谷, 1998, p75)というワードがあったのですが、それがなぜかとてもしっくりきて「いくぢなしが綴る性と死のうた」と考えるといろいろ私の中で整合性が取れる気がしました。あくまで私個人の中での問題です。
それでも「背中にキスしたら」(『タイムトラベラー』1993)、「甘くて苦いベロの先」(『夜を駆ける』2002)、「足で触り合っている」(『ローテク・ロマンティカ』2002)という詩がある通り、曲の中の「僕」や「俺」もちゃんとやることはやっているようです。「抱き上げて愛撫」(『グラスホッパー』1995)もしますし、あっちこっちにチュッチュもします。チェリー卒業おめでとう!お幸せに!!と思いきや「そんな夢を見てるだけさ」(『初夏の日』2019)という切なすぎる感情に突き落とされるような曲もあるので、曲の中の「僕」と「俺」はまだ理想の愛のかたちには辿り着いていないのだろうかと心配にすらなってしまう。
1stアルバム『スピッツ』
スピッツの歌は暗喩的に性的イメージを想起させる歌詞はやっぱり多いです。特に初期はかなり露骨で、気怠そうな歌い方やこもりがちな演奏が却って色気…というよりはねっとりした雰囲気を醸し出している気がします。既にカマトト不可能の筆者ですが、ここでは良い意味で脳内を思春期にしてスピッツの歌の歌詞から直球なエロスも文学的なエロスも粗探ししたいと思います。
私的な性的解釈は許せんぞ!
そもそも歌詞の解説は無粋だ!
という方にはあらかじめお詫び申し上げます。
特にそういう解釈が浮かばなかった曲はそれっぽく感想だけ書いてます。
ニノウデの世界
おなかのうぶ毛に口づけたのも
一発目からフェチまるだしの曲名。屈指の高音域を発しているとも思われる。その細くて高い歌声が既に情けないあえぎ声に聴こえてしまうほど(ほめてます)。女性が男性のおなかにくちづけてもうぶ毛というほどの繊細さはなさそうな気がするので、男性が女性のおなかのうぶ毛を楽しんでいるのでしょう。男性のおけけは脛毛なのに床に落ちてるだけで下のおけけと見間違うほどに強いですからね。ものすごくどうでもいい話ですが。
海とピンク
ほらピンクのまんまる
空いっぱい広がる
意味深に捉えようとすればいくらでもいやらしくなるすごい曲。仮に「ピンクのまんまる」をピンクの月と捉えるといわゆるストロベリームーンのような恋愛の象徴みたいな感じになります。そうでなくても月は女性の生理周期に対して影響をもたらすともいわれているので満月というのはどこか神秘的です。
しんしんと花びらも
指先で冷たくふるえてる
個人的に海に花びらがあるというシチュエーションがぱっと想像できなかったせいで「もしかして女性器の隠喩か」と思ったりもしたのですがあまり掘り下げるのはやめます。花が咲いている海(もしくはどこかから持ってきた)なんていくらでもありますよね。
ビー玉
おまえの最期を見てやる
柔らかい毛布にくるまって
ずばり最期=絶頂(オーガズム)だと思ってます。綺麗な歌詞でごまかされてはいけません。俺(この曲中での一人称は俺)が見ててやるからお前のイってるところを見せてみろよという超サディスティックな歌です。
多分。
五千光年の夢
ゆがんだ天国の外にいて
全体的にちょっと不気味な歌。他の曲も独特な世界観だらけなのですが、明るい曲調に反してどこか不穏な言葉が続きます。
月に帰る
真赤な月が呼ぶ
僕が生まれたところさ
黄色い月が呼ぶ
君が生まれたところさ
またしても某新世紀みたいな世界観。真赤な月と黄色い月(エヴァでは白き月と黒き月)とありますが、先にも書いた通りそもそも月は太古よりさまざまな物事の象徴とされているのでやっぱり神秘的な雰囲気が漂います。
もうさよならだよ
君のことは忘れない
白き月はアダムの卵、黒き月はリリスの卵で、いろいろ揃うと人類補完計画となり全てはひとつに還ります。というわけで人類補完計画の真相にいち早く気付いてしまっているすごい歌。
テレビ
君のベロの上に寝そべって
世界で最後のテレビを見てた
もうわけがわからない歌。
タンポポ
僕らが隣り合うこの世界は今も
けむたくて中には入れない
ここの歌詞が好きです。理由は頭の中にはきちんとあるのですがうまく言葉にできません。
死神の岬へ
そこで二人は見た
作曲はGt.の三輪さん(名義は三輪徹也)。
二人が誰なのかはわかりません。客観的にはどうでもいいものを発見しているけれど主観的にはなぜか印象的だったりしてつい写真を撮ってしまったりすることなぞありますが、そんなインスタグラムを先取りしたような雰囲気のある歌。
トンビ飛べなかった
でもすぐに壊れた僕の送信機
枕の下に隠れてる君を探してた
もう「僕の送信機」が男性器だとすれば「枕の下に隠れてる君」がエロ本だろうが自分の頭の中にいる君だろうが本当に隠れている君だろうがなんでもありです。妄想というのはとどまるところを知らないですね。
夏の魔物
なまぬるい風にたなびく白いシーツ
多くのアーティストにカバーされている隠れた名曲。曲名の通り季節は夏です。その歌詞の内容から「中絶」の歌説が一般化??しているようですが、私自身はマサムネ氏本人の口からもインタビューなどの文章からも本当のところを見聞きしたことはありません。総じて歌詞や文学は各々の感性に委ねられることも多いので、もはや解釈が独り歩きするのも仕方ないとも感じますが、これはそういう歌なんだ!と断定してしまうとこれで終わってしまうので私はこの説からはいったん離れて聴いています。
ぬれたクモの巣が光ってた
泣いてるみたいに
君と僕の関係性をいろいろ疑ってしまうとキリがないので敢えてここでは置いておいて、夏の儚さがとてもよく出ている歌だと思っていつも聴いています。夏という季節を表現するだけでも切り取る場面がとてもニッチというか「夏に対してのフェティシズム」のようなものが強い歌だと思っています。
うめぼし
先の『夏の魔物』と同様に有名アーティストにもカバーされている名曲。私は奥田民生さんのカバー版が好きでオリジナルよりこちらをよく聴いている時期もありました。
うめぼしたべたい
うめぼしたべたい
僕は今すぐ君に会いたい
私の中でずばり「うめぼし」は女性の乳首だ!!と思っています。直球過ぎるというかあまりにも品のない解釈に自分で言って情けなくもありますが。ただ、歌の中心は窮屈な世界の中で知らぬ間に加害者になってしまったりだとか自分ひとりでは押し潰されてしまいそうな罪悪感??の中で「とても寂しい」、けれど「優しい言葉だけじゃ物足りない」から「うめぼしたべたい」となる僕は「今すぐ君に会いたい」となるのではなかろうかと勝手に思っています。
ヒバリのこころ
僕らこれから強く生きていこう
行く手を阻む壁がいくつあっても
冬の終わりの歌。これはエロスとかではなく、純粋に「そうだよなぁ」と感じた歌詞です。特にこういう時代だからこそなのかもしれませんが、ひとりじゃ生きていけないことは痛感せざるを得ない世の中ですので「僕は」とか「僕が」ではなく「僕ら」というのが何か良いなぁと思って改めて聴き返したらちょっとしんみりしてしまいました。
1991/03/25発売の1stシングル『ヒバリのこころ』
カップリング曲は『ビー玉』
エロスの神が降りてきたら追記修正します
参考・引用:
渋谷陽一(発行)『スピッツ』株式会社ロッキング・オン, 1998
プラトン(著), 久保勉(訳)『饗宴』岩波文庫, 1952
粟田賢三・古在由重(編)『岩波哲学小辞典』岩波書店, 1979
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