私の父と膠原病と半年の闘病生活

2020年7月20日  2020年4月30日 

私の父は私が思春期直撃の頃に亡くなりました。正直当時は父親を好きだと思ったことがほぼ皆無だったので、いざ臨終に立ち会ってもリアル感がありませんでした。ただ年齢を重ねてくると「男親」の大事さが身に染みてきます。男性ならではの仕事の話や人生の苦労など聞いてみたい話は山ほどあるかもしれないと思うと悔やまれますが致し方ありません。特に深い意味はないですが、当時の思い出くらいは忘れないように覚えているうちに書いておこうと思いました。

私の父


私の父は「死」という概念とは程遠い人でした。

もちろん父親ですので、裏を返せば私より先にあの世に逝ってもらわねば困ります。しかしいつも自分の趣味や娯楽(鉄道模型やバイクなど)に没頭し、家族そっちのけで悪友と遊びに行ったり何故か浅草の三社祭に参加したりとまさにフーテンの寅さんのような人でした。家族を連れて新宿にある花園神社の酉の市で大きな熊手を見に行ったり、屋台の射的で変なお人形を当ててくれたりするひょうきんな父親でもありました。食事も豪快で、飲食店に行くと酒の肴になるような物をたくさん頼むのでテーブルはいつも小鉢でいっぱいでした。

まだ未就学児童の私を中型バイクの後ろに乗せて連れ回すのが好きで「父ちゃんに捕まってろ!」と言って飛ばしまくっていたので流石に警察に見つかった時は「子供と2人乗りするな!」と口頭で注意されていました。昨今ではほぼ児童虐待レベルですが、当時(平成初期)は割と適当な時代でした。

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毎年夏には伊豆半島や越後湯沢など家族旅行にも連れて行ってくれました。

母が旅先で体調不良になりレストランまで朝食を食べに行けない日がありました。そこは父が勤めている会社が借りていたマンションの一室を福利厚生の一環で使わせてもらっているような感じでしたので、レストランと言っても豪華なホテルのレストランというより当時は近くにコンビニも飲食店もなかったので宿泊客向けに併設されたこじんまりとした食堂みたいなものでした。
それが理由にはなりませんが、父は私を連れて朝食を済ませると店員さんに「家族が体調悪いからさ、朝飯持ってって良い?」と言いました。私は「そんな事できるの?」と思って見ていましたが、そうでもしないと母は食べる物がないのでそうするしかないだろうと思いました。流石に店員さんも驚いて困っていましたが、父は畳み掛けるように「病人がいるんだよ!食器とかはすぐ返すからさ、持ってったっていいだろう?」と軽く怒鳴りました。私が店員さんの立場でこんな客に当たったら最悪ですが、私は父のしている事が悪い事だとは思いませんでした。父は母にお店からほぼ強奪した朝食セットを届けましたが、あまり食べられず結局父が食べました。

こんな事もありました。

親戚で都内の大叔母(父の叔母)の家に集まっている時、出前を取ろうという事で適当にチラシを取って蕎麦屋に電話注文しました。

届いたのは今の牛丼屋などの持ち帰り用容器とそっくりのスチロールカップに入ってすっかりひからびてしまっていた蕎麦でした。確かにお品書きには「エコに取り組んでいます」と言う謎の一文が添えられていましたが、ここが海辺やプールサイドならまだしも出前と容器と蕎麦の相性は最悪で、かけ蕎麦こそ食べられたもののざる蕎麦は既に固まってしまい、岡山に嫁いでいた大叔母は「こない固まってしもうちょるわ、あははは!」と笑っていましたが父は大激怒。すぐさま電話で再び呼び付けると気の弱そうな若い男性が戦々恐々とやってきました。
「店長はどうした!」「こんなもん食えるか!」と怒鳴り付ける父にすっかり萎縮した男性は小さな声で「すみません…」と頭を下げるしかありませんでしたが、父は「こんなもんに金は払わねぇからな!」と言いつつも「店の人には内緒だぞ…。こんな店とっとと辞めちまえ!」と言って男性に幾らかお札を握らせていました。やっと解放されると悟った男性は逃げ帰るように出て行きましたが、私はその時の父を見ておそらく初めて誇らしく思いました。

母は毎日のように「うちは貧乏」と嘆いておりましたが、そんな父でも二級建築士として設計事務所に勤務しており、バイクが好きだった父は都内から横浜までバイク通勤していました。
不動産業界は「クレーム産業」としても有名なので心労もあったようですが、家に帰ってくるとお酒を飲みながら母に仕事の話をたまには機嫌良く、たまには愚痴っぽく話していました。まだ小学生の私も夕食を作り終えてやっとゆっくりできる母に学校の事や自分の思った事などいろいろ話して母に甘えたかったのですが、ほとんど父に母を取られてしまい私はそんな父が嫌いでした。

今でこそ路上喫煙や店内での喫煙も禁止になり、家の中でも吸えないお父さんが外で煙草をくゆらせている姿をよく目にしますが、20年以上前は喫煙者の方が幅を利かせていて私の父も食後はお酒を飲みながら煙草を吸っていました。狭い部屋なので煙草を吸わない母と小学生の私は副流煙に腹が立ちよく喧嘩になっていました。

寝煙草(布団の中で煙草を吸う事)も多かった父は寝床に灰皿を置きそこで火種を潰した煙草の吸殻をゴミ箱に捨てる事が多かったのですが、くすぶっていた火種がゴミ箱の中で燃え出して家中煙だらけになり、寝室を見に行ったらゴミ箱が燃えていたなんていう事もありました。父と母が燃えたゴミ箱を持って慌てて風呂場に駆け込んで行く姿は今でも忘れられません。お酒と煙草で一日の疲れを癒した父はそのまま居間で寝る事が多く、お風呂は食前に入っていましたが歯磨きは翌朝でした。

晩年は親族間でのトラブル(主に相続や手続き系)が多く長男である父は多方から責任や決断を迫られストレスを抱えているようでした。

その分お酒に逃げて焼酎やウイスキーや紹興酒など度数の強いお酒を水のように飲んでいましたし、そんな父を心配してお酒を隠した母に「酒はどこだ!」と怒鳴り付けて殴ったり椅子から突き落とす事もありました。当時はそこまで一般的な言葉ではありませんでしたが完全にDVですね。今となっては思い出話ですが、当時は本当にどうしようもない父親でした。

家でお酒を飲んでいる最中に悪友に呼び出され、ほぼ酔いが回っている状態にも拘らずバイクで出掛けてしまった事もあります。(飲酒運転はダメ!絶対!!)母は一生懸命に止めましたし、私も冷めた子供だったので軽蔑の眼差しで睨み付けるだけでしたが心の中で「ああ、これは死ぬな…」と思って見ていました。

バブルがとうに弾けた時代になっても典型的な昭和のとんでも親父でしたが、ディズニーランドが大好きで私の入園料がかからない3歳くらいまでは月に2回のペースで家族を連れ出していたそうです。建設業だったので園内の建物などが気になるらしく、よく手でペタペタ触りながら「何の材質なんだ?」と独り言を言っていました。園内を走っている乗り物も好きで勝手に車(オムニバス??)の後ろに掴まってみたりとやる事は滅茶苦茶でした。
当時は貴重だったホームビデオカメラを月賦で購入して(当時で20万円くらい)ショーやアトラクションなどを撮影して編集していました。

まだ景気が良かった頃は社員旅行でハワイに行き、ディズニーのカートゥーンビデオやコミック雑誌をお土産に買ってきてくれました。全部英語なので私にはさっぱりでしたが今でも宝物です。

膠原病と半年の闘病生活


さて、私が小学生くらいまではそんなこんなで元気にやっていた父でしたが、小学5年生くらいから雲行きが怪しくなってきました。

今は完治していますが当時の私は酷い小児アトピーで手がボロボロでした。父もアレルギー体質で常に手には軽い湿疹ができていて、ある時それが悪化したのか痒い痒いと母に訴え出したのです。とりあえず近所の皮膚科で診てもらったところ特に問題はなかったようで、偶然近い日に母から庭仕事を頼まれ渋々引き受けていたらしくその時に何かでかぶれたんだと母と喧嘩していましたが、どうにも治る気配はありませんでした。皮膚だけでなく筋肉にも炎症が拡がっていたらしく、手の痛みや力が入らないなどの症状も訴えていたようです。

ただの湿疹が始まりだったはずなのに徐々にやつれていくような気がした我々は、とある日に父が散髪してから帰宅した時にぎょっとしました。髪の毛を短くしたせいで顔の痩せ方が露骨になり、とても50代とは思えない程に老けていました。流石に母が他の病院でも診てもらうように勧めると、そこの医師には「最初にどこで診てもらったの?」と聞かれたそうですが父は答えなかったと言います。
そのまま父は地域の小さな病院に入院しますが、なかなか弱っていく原因がはっきりしませんでした。

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結局、某大学病院に転院した父に下った診断は「膠原病」でした。膠原病は国の指定難病になっていて当時は発症したら急速に悪化し有効な治療法はないとされていました。ちなみに膠原病は多々ある疾患の総称に当たるので、厚生労働省の指定難病分類では「免疫系疾患」に分類されているものが多いそうです。50番の「皮膚筋炎」という病名は当時何度も耳にしていました。発症当時に力が入りにくいと言っていたのはこれが原因だったのかもしれません。

医師の指摘通り父はみるみるうちに痩せ細り、ビール腹で「たぬき」と揶揄されていた父はすっかり「鶏ガラ」になってしまいました。

初めの頃こそ集団部屋でしたが早々に個室部屋に移されました。個室に移された患者は二度と生きては戻らない。それが院内での暗黙の了解でした。

入院初期は病院食を食べていましたが手続き上の問題や医師の計らいもあり「(死の間際くらい)好きな物を食べなさい」という事でいったん自宅療養となり、母と私に段ボールや発泡スチロールを買いに行かせてお得意の設計図で簡易ベッドを作らせました。寝ながら大好きな刺身を食べ大音量でテレビを観たりしていましたが、そんな父の姿を見ても不安しか感じませんでした。

ある時偶然私が父の寝ている食卓に本を取りに行くと「(母の名前)呼んでこい!」と怒鳴られました。怒鳴る元気があるなら自分で呼べば良いのにと完全に反抗期に入っていた私もイライラして「うるさいなぁ…」と反抗していると「いいから呼んでこい!」と再度怒鳴られ母を呼びました。どうやら尿瓶をうまく扱えず畳に尿を溢してしまったらしく、それを子供に悟られまいと慌てて怒鳴ったのでしょう。

結局自宅療養も限界となり再度大学病院にストレッチャーで運ばれ戻って行きました。

病室で話していても気分が変わらないので、院内を歩ける内は家族で場所を変えて待合室や食堂などに行き父の話に付き合っていました。父は私に小銭をよこすと「いちばん良いアイスを食え!」と言って近くのハーゲンダッツの自販機を指しました。私は300円だか500円だかを持っていそいそと飛び出したのを覚えています。

たまに母と院内を散歩していると鬱蒼と茂った建物の先に「霊安室」と書かれた汚い看板があるのを見付けました。当時そこは改装中で、できたばかりの綺麗な施設と昔ながらの廃病院のような施設が混在している不気味な空間でした。父の最期はこんな汚い地下室になるのだろうかと思い、母と「これは嫌だ」と話したのを覚えています。

父と最後にテーブルを囲んだのは院内のカフェでした。そこは本来は見舞客が利用する普通の、しかも割と高級感のあるカフェで、患者の利用が禁止されていた訳ではありませんがそもそもパジャマ姿で入店する患者はほとんどいませんでした。そういった人目を全く気にしない父は自ら受付に「入れるよね?」と圧をかけるとあっさり入店できましたが、他のお客さんの視線は冷たいものでした。私はあの時ほど人間を憎いと感じた時はありません。もはやいつ死んでもおかしくない父が院内施設のちょっと綺麗で高層階にあるカフェレストランを利用する事がそんなにおかしい事なのでしょうか。新宿のゴールデン街近く(今の歌舞伎町一丁目と新宿五丁目、昔の三光町)で育った父は副都心の高層ビル群を見ながらおそらくこれが最期になると覚悟していたのでしょう。
父は何も頼みませんでしたが、私たちには好きな物を頼めと言ってご機嫌でした。しかし私はアイスフロートのようなものをちびちび飲んでいるだけで胸がいっぱいでした。

私は中学生になっていたので通学と勉強でそれなりに忙しくなっていました。帰宅部でしたがお陰様で親友と遊ぶのが楽しくそれなりに学生らしい日常を過ごしていました。と同時に病院からは自然と足が遠のき母に怒られる事もありました。学校から帰ったら夜に母の手伝いで病院に行ったり休日は早い内に向かう事もありましたが、専業主婦だった母と比べてコンスタントに病院に通えない私は行く度に、もはや歩く事も話す事すらできずただ寝ているだけの父を見て症状の進行の速さを痛感していました。母は泊まり込む時もありましたが私は学校の試験や行事などを優先させていたのであまり父の側にはいませんでした。

父は「間質性肺炎」を発症し、医師からは人工呼吸器の提案が出ました。それは単なる延命措置でしかないのでもはや意味がないのは誰もがわかっていましたが、それは母と医師による最後の計らいでした。私はちょうど父の死期と2泊3日の林間学校がかぶってしまい、医師は母に「林間学校行きたいでしょう?」と言って処置を開始してくれていました。もちろん私に具体的な事が語られたのはずっと後の事です。

人工呼吸器を付けた父は人間ではないみたいでした。いろいろな管に繋がれ、ベッドの横には大きな機械が置かれ「ピッピッピッ…」と何かを計測していてメーターが振り切ったかと思うといきなり大きな音を立てて「プシューーー!!」というのでとにかく生々しくて怖かったです。それが初めて『人工呼吸器』を目の当たりにした時でした。指には血中酸素飽和濃度を測るための機器(パルスオキシメーター??)が装着されており、正に生ける屍と化していました。

人工呼吸器には気管挿管と気管切開とマスクがあるそうですが、母の記憶では気管切開だったようです。そのため切開した箇所から細菌が入り「敗血症」になったのではないかと母は記憶していますが正直私も断片的にしか覚えていません。

敗血症を併発した父は私が林間学校から帰ってくるまで持ち堪えるために輸血を開始しました。血圧も下がり酸素濃度もぎりぎりだったのでしょう。今考えると医師や母にも感謝ですが、人工呼吸器や輸血に耐えて私の帰りを待っていてくれた父にも感謝しないといけないのかもしれません。

遺体となった父


初夏の日でした。

既に梅雨入りしており急に大荒れの天気と酷い雨に見舞われました。家の固定電話が鳴ると母は覚悟したかのように受話器を取り、一言「ありがとうございました」とお礼をすると私に支度を促してタクシーを呼びました。私には「ちょっと行かないといけないから…」としか言いませんでした。真っ暗でバケツをひっくり返したかのような大粒の雨の中、激しく動くワイパーを見ながらただ病院に着くのを待っていました。

病室に着くと父は人工呼吸器を付けていませんでした。我々「遺族」が駆け付けた事を確認すると数人の医師の中のひとりが腕時計を確認し「ご臨終です」と言うと顔は白い布で覆われました。それまで母と一緒に親身に治療に当たってくれていた女医の先生も神妙な面持ちで手を合わせていました。私は5歳の頃に祖父の死を経験していましたが病室での臨終に立ち会ったのは初めてだった事もありただ立ち尽くすのみでした。

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以前「ここは嫌だよね」と霊安室に拒否感を持っていた母は、霊安所に遺体を安置しなくても済むように臨終の際にはすぐ動いてもらえるよう葬儀屋さんには先にお願いしていました。

大学病院だったので指定難病をきっかけに様々な合併症を引き起こし発症から半年で亡くなった父を病理解剖させて欲しいという話になりました。母と私は正直それで医療の進歩に繋がるならと思いましたが、他の親族が感情的に断ったので病理解剖は拒否する形となりました。医師との話し合いや死亡診断書などの手続きもあり遺体はしばらくの間だけ個室部屋に安置されていましたが、早々に葬儀屋さんが専用の車で迎えに来てくれたのでそのまま医師たちに見送られて無言の帰宅と相成りました。雨の降る中わざわざ最寄りの駅や商店街の道を回って(一方通行なのもありましたが)長年住み慣れた街に最期の別れをして家路につきました。

後から聞いた話でしたが、父はまだ話ができる頃に母に「(私の名前)に良い靴を買ってやれ。」「(私の名前)の晴れ姿も俺は見れないんだろうなぁ…」と言って少し涙していたそうです。

私の祖父も死の間際に「(私の名前)のランドセル姿も見られないんだろうなぁ。」と言って母に私のランドセル代を渡していたそうで、男親の不器用さというものには何とも言えない気持ちにさせられます。

また、難病と発覚して会社に申し出たところ自己都合だと失業手当もすぐに出ないので会社側が会社都合にしてくれたそうです。それでも病気で解雇されたも同義なので、父は夜な夜な独りで泣いていたらしいのですがそれも母の推測でしかありません。父は私たちの知らないところでいろいろな感情を背負ったまま意識を失い息を引き取ったのでしょう。

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