【追悼】藤子不二雄Ⓐ先生との思い出@松坂屋銀座店
2022年4月7日、漫画家の藤子不二雄Ⓐ先生が川崎市の自宅で亡くなられていたとの報道がありました。88歳でした。
私の世代では小さい頃に「藤子不二雄ランド」というのがあって毎週だかに漫画が1冊発売されていましてコマーシャルも印象的でした。
♪出たんだよ 出たんだよ
藤子先生の漫画集 藤子不二雄ランドが出た
♪続くんだ 次から次へ 漫画の本が続くんだ
そうなんです 先生のいろんな漫画の本が
毎週1冊読めるんだ
♪楽しいよ 表紙を開けばセル画がついてる
♪新作漫画ウルトラBものってるよ!
♪藤子不二雄ランド
毎週金曜日発売 今週は黒べえ
本屋さんでね
ナレーションは大山のぶ代さん
親がオバケのQ太郎とウルトラBの2本立てアニメ※1をVHSに録画していてくれて、小さい頃には擦り切れるレベルで繰り返し観ていたのですがコマーシャルも録画されていたためその度にこの謎な歌を聴いておりよく覚えています。Q太郎のパンチングドールや指人形、主題歌などが入ったカセットテープ(コロちゃんパック)も買ってもらっていました。
※1)月曜から金曜の午後6時25分からテレビ朝日系で放送されていた「藤子不二雄劇場」のようです
母親だったか父親だったかは忘れましたが、新聞で当時まだ存命だった大御所の漫画家さんが阪神・淡路大震災(1995年1月17日)のチャリティーとして寄附金を募ってサイン入りのイラスト色紙を描いてくれたり、漫画家自らが似顔絵を描いてくれたりするというイベント??があるということを知り、記事を切り抜いておいてくれました。
私は小さい頃から『ルパン三世』も好きで、来場される漫画家のなかにモンキー・パンチ先生(故人)の名前があったため父親が小学生の私を銀座まで連れて行ってくれました。当時はネット環境が今ほど整っていなかったので催事情報はテレビやラジオや新聞などが主な情報源でした。
会場は(松屋銀座ではなく)銀座松坂屋。歩行者天国を利用してかなり大規模に開催されていたように記憶しています。現在は閉店していて跡地は商業施設「GINZA SIX」になっています。
まだバブルの名残がかほる銀座に到着した父娘はお目当てのモンキー・パンチ先生を探しましたが、とにかくひとが多すぎてよくわからないので父が係員の男性に聞いてくれました。すると「本日は急遽来られなくなってしまった」とのこと。少々がっかりめの小学生の娘を連れて「いないもんはしょーがない」と適当にうろうろしていたところ(父はミーハーなだけでそもそも漫画に詳しい方でもない)藤子不二雄先生がいるという情報を聞きつけ直行。その時点で藤子・F・不二雄先生なのか、藤子不二雄Ⓐ先生なのかは全くわかっていませんでした。
そもそも当時は今では当たり前の整理券や列に並んで先着順などのルールはあまりなくて、その会場もとにかく「先生の卓に近付いたもん勝ち」という今考えたら警察が駆け付けてもおかしくない程にカオスでした。私たち親子以外には若い男性が圧倒的に多くて、『笑ゥせぇるすまん』でお馴染みの喪黒福造や(当時のイラストの記憶から探すと)『ワールド漂流記』の主人公である素野安彦をリクエストして先生に「マニアックだねぇ」と感心されていたように覚えています。
先生に憧れて殺到している若い男性の熱気の中に子連れのおっさんと小学生の女の子という明らかに浮いた環境を逆手にとって、グイグイと私を前線に立たせようとする父のおかげ(せい)で割と早く先生のすぐ近くまで行けました。先生のファンが紳士な男性ばかりで本当に良かったです。
荒波に揉まれて佇んでいる私に気付いてくれた先生は「なにがいい」と優しく聞いてくれました。私の返答は「…Qちゃん」。もう少し後になってから藤子不二雄の名義システムを知った私は「もしかしてオバケのQ太郎は藤子不二雄Ⓐ先生ではなくて藤子・F・不二雄先生の作品だったのでは…」ととても心配したのですが、どうやら共著ではあるようなのでひと安心。言い訳すると小学生がそんなことわかるはずもあるまいと思いますが、このひとはドラえもんやコロ助ではないということは当時から理解していたのは覚えています。
"※藤子不二雄Ⓐ氏との共著です。"と記載されています
ひとまずQちゃんは1963年に発表された作品でコンビを解消したのが1987年ということだそうなのでセーフ。お2人が袂を分かつに至った理由等については割愛しますが、ただQちゃんをお願いして良かったのかどうかは当時は謎でした。これに関しては後述します。
そんなあほ小学生のリクエストに「はい、Qちゃんね」と、ウインクしたQちゃんが一輪のお花を持って雲が浮かんだ空を飛んでいる可愛らしいイラストをカラフルな油性ペンを使用して描いてくださいました。最後には名前を聞かれ、その時は父が割って入って漢字から何から正確に伝えていたのですが(本当は自分で頑張って伝えたかった)名前の横に赤いペンでハートマークも入れてくれました。できあがった色紙は先生の後ろにいたスタッフの方が松坂屋の紙袋に入れて父が渡す2,000円(義援金)と引き換えに手渡ししてくれたのですが、小さい私はQちゃんの色紙に気を取られすぎて先生が握手のために手を差し出してくれていることに気が付いていませんでした。慌てて握手をするも小学生の価値観らしく実際に対面できたことよりも直筆のQ太郎を描いてもらったことの方が嬉しかったですね。
欲を言うとQ太郎の妹のP子も一緒に描いてもらえばよかったかなあなどとも。P子ちゃんはドラえもんの妹のドラミちゃんのプロトタイプのような可愛らしい妹キャラで、いつもだらしがない兄に対して「おにいちゃん」と世話を焼きます。藤子・F・不二雄の単独名義になってから描かれた『新オバケのQ太郎』では、O次郎という末っ子の弟も登場します。まだ小さいので基本的に話せる言葉は「バケラッタ」のみ。
今考えると非常に贅沢な時間だったのに、こどもというのは本当にバカですね。しかしまだ幼い児童だったおかげで激戦の中をかいくぐれた(周囲が気を遣ってくれた)ということもありますし、すっかりおとなになった今では逆にこどもたちにそういう機会をたくさん与えてあげられる世の中になると良いなぁなどと生意気にも思います。こういう思い出は本当によく覚えていますし、将来を左右するターニングポイントにもなりかねません。私は漫画家を志すとかそういったことはありませんでしたが「やっぱり大物のひとってすごいな」といっちょ前に感動+萎縮したことは覚えています。
今でもそしてこれからも、このQちゃんは先生そして当時のおとなたちのおかげで手渡された家宝です。しかし震災のチャリティーということも忘れてはいません。つまり震災がなかったら今この色紙は手元にないかもしれないと考えると非常に複雑な思いではあります。朝起きてくるとテレビ一面が火の海だった当時の報道の衝撃は今でも脳裏に焼き付いています。このQ太郎はそんなさまざまな思いの中で生まれたQちゃんです。改めて、藤子不二雄Ⓐ先生のご冥福をお祈りいたします。
* * *
後に調べたところ、旧小学館ビル(通称「オバQビル」)が2013年に取り壊される前にプロジェクトの一環でまたQちゃんを描いておられました。
地上9階、地下3階の小学館ビルは「週刊少年サンデー」創刊から8年後の1967年に完成。当時、藤子不二雄(※)の漫画『オバケのQ太郎』の大ヒットによりビルが建ったという噂があり、「オバQビル」とも呼ばれていた。今回、東日本大震災後の耐震強度の見直しにより建て替えが決まったという。
今回この記事を書くにあたってようやく知りましたが、そもそも『オバケのQ太郎』は藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aによる「藤子不二雄」と「スタジオゼロ」による作品でありました。スタジオゼロの中心メンバーは鈴木伸一(ラーメン大好き小池さんのモデル)、藤子・F・不二雄(藤本弘)、つのだじろう、石森章太郎(当時)、藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)を中心メンバーとして設立されたアニメーション制作会社とのこと(敬称略)。後に『おそ松くん』『天才バカボン』でも有名な赤塚不二夫も加入してアニメーションの製作や漫画原稿の執筆などに取り掛かっていたというすごい会社です。1964年に漫画『オバケのQ太郎』連載開始を機に雑誌部と動画部に分割して原稿の執筆も併せて担当。収益は動画部でひっ迫していたスタジオに入れており、小学館もQ太郎のヒットにより本社ビルを建て替えることができたなどともいわれています。
そのため私が持っている漫画はキャラクターやコマや話数によって微妙に絵のタッチが違うことは小さい頃からなんとなく感じ取ってはいたのですが、正直あまり気にしていませんでした。
とてもわかりやすく貴重な資料です(PDF形式)
今では権利関係等によりグッズなどを見かける機会がありませんが、トキワ荘出身の仲間たちが作り上げた『オバケのQ太郎』はいつまでも愛されてほしいとても特別な存在であります。
参考:
藤子不二雄Aデジタルセレクション(https://fujiko-a.com/)2022.4.28
ありがとう!小学館ビル ラクガキ大会(https://www.shogakukan.co.jp/rakugaki/)2022.4.28
藤子不二雄Ⓕ『藤子不二雄ランド VOL.194 新編集 パーマン⑩』中央公論社 S63.6.10
©藤子/小学館・テレビ朝日『コロちゃんパック オバケのQ太郎』日本コロムビア株式会社 1986.8.21
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