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パニック障害の私が東日本大震災から半年の被災地に旅行した時の手記

2020年3月11日 

2020年3月現在。日本だけでなく世界中で新型コロナウイルス(COVID-19)が蔓延し、もはや地球規模で未曾有の事態となっております。
そして今からちょうど9年前の2011年3月。日本ではほとんどの人が経験した事のない甚大な地震災害を受け、また世界中にも強い衝撃を与えました。

私は震災が起きた3月から約半年後、正確には12月だったので約9ヶ月後になりますが電車を利用して4泊5日の東北旅行に行ってまいりました。

先日データを整理していた際にその時の手記や計画表などを発見し、もともと個人的な記録として書き残していた物なので語弊がある箇所も多いのですが、今現在の私の視点での注釈や当時撮った写真なども交えながらここにまとめました。

普段は社会派というか真面目になり過ぎるセンシティブな話題は避けてきた節がありました。正直情報の取り扱いが難しいというのもありますし、ご縁があって読まれた方の各人の思いというのがありますので「批判されたり嫌悪感を持たれたりするのが怖い」というのもあるかもしれませんが「自己の考え方や捉え方を誰かに伝えたい」という自身の思いがあるのもまた事実です。
エンタメが対象であれば割といろいろ書けてしまう気がするのですが、今回はタイトルの通り『東日本大震災』がテーマになりますので、もし「当時の事を思い出したくない」「この話題は避けたい」という方は閉じていただいた方が良いのかなとも思います。もちろん凄惨な表現や写真などはありませんが、まだ震災の爪痕が生々しく残る被災地の様子を実際に見聞きした時のリアルな心情を吐露しています。

また、当時からパニック症に罹患していたのでそちらもメインになります。パニック症患者がひとりで電車に乗ったり知らない所を歩いたり出先でイレギュラーに直面するとどうなるのか、というリアルもまた感じていただけるとより良いのかなと思います。

2012年1月11日に記録していた物に加筆修正を加えていますが、なるべく当時の表現を残しています。

去年の暮れ(2011年12月)に福島と宮城に行ってきた。主治医の薦めで何処か旅行に行く事は決めていたのだが、仮に海外とか、国内でも南の方になるだろうとは思っていた。自分は生まれも育ちも住まいも東京だが、何を思ってか駅のチラシを見て被災地に行こうと決めた。

* * *

自分自身は至って健康体で人並みの人生は歩めると思っていた。けれども20歳前後にパニック症などを併発して普通に生活する事もままならなくなってしまった。
そうして数年が経ったが症状はなかなか軽快せず、体重も10kg以上落ちて血液検査の数値にも若干の異常値(当時)がみられるようになった。外出できない、食事が摂れない、眠れない毎日の中で次第に自分ばかりが貧乏くじを引いているような、要は悲劇の主人公に浸って自我を維持するまでに堕ちていた。

そんな鬱屈とした日々の中であの震災が起こった。都内の被害は被災地のそれとは比にならない。けれども、あの日本中の妙な雰囲気や毎日メディアから流れてくる情報で心身共にすっかりまいってしまった。いわゆる「エア被災」だった。症状も悪化して夏の間に更に5kgは痩せた。

電力会社、政府、偽善だ、売名だ、利権だ、陰謀だ…。とにかく全てのニュースや不毛な討論に苛立っていた。けれども、いちばん腹立たしかったのはおそらく自分自身に対してだったと思う。

東京でも計画停電(輪番停電。地域と時間を決めて一時的に電力の供給をストップする。私の住む地域では毎日15時からを予定していたが、結局行われる事はなかった)や品不足(衛生品や食料品などほぼ全て。特に常温で保存が効きやすいパンや菓子類などは好まれた記憶がある)に割と都内近郊でありながら電車も不通区間になるような異常事態が起こるような状況で、かくいう自分は毎日床に伏せっているだけだった。発作を起こして同居している母親を困らせる事も日常茶飯事だった。

どうせニートみたいなもんだからボランティアにでも…とも思ったが、巨額に寄付できるようなお金はないし、例えば瓦礫の撤去作業なんかに参加しても現地で嘔吐して過呼吸で倒れて迷惑をかけるのがオチだと思った。

外出するのは学校の関係と通院のみ。たまにコンビニで募金箱に1円玉を放り込み達成感に浸っていた。しかし自分のお金ではなく親のお金。ただただ情けなかった。

年末になり、大手旅行代理店は円高に乗っかって海外旅行の宣伝。自分は飛行機もダメなので仮に海外だとしても頑張ってアジア圏内だと思っていた。しかし調べてみればやはり経費がかさむ。当然の如く親もあまり良い顔はしなかったので、せめて国内で暴露療法(自身が不安を感じる物事に敢えて直面する事で疾患の克服を図る行動療法。安全が保証されている事が前提にあるのでこれが暴露療法になったかどうかは不明)を楽しんでやろうと半ばヤケになっていた。

経済的な事はネックなので青春18きっぷで移動する事は決定していた。鈍行列車しか乗れないので却ってパニック症の訓練になると思った。宿泊先は駅チカの安価なビジネスホテルにして、あとは目的地だった。

当初は関西を候補に挙げていたが、なぜか東北、しかも被災地が頭を過ぎった。「今の時期なら被災地観光も迷惑にはならないだろう」「実際JRも東北応援パスとかやってるし…」と案外すんなり決まった。もちろん震災の爪痕を見てしまう事で余計に症状を悪化させるのではないかという懸念もあった。

ただ、何となく「絶対に行かない」という選択肢はなかった。単なる自己犠牲的(当時は原発事故による放射線量の増加などにより付近に寄る事すらタブーな雰囲気があった)な自己満足だというのもわかっていた。それでも、今の自分を良い意味で「壊す」にはこれが最良の選択だと漠然と信じて疑わなかった。

行き先の候補は「いわき」。原発(福島第一原子力発電所)の(2011年12月当時の)「警戒区域」にいちばん近い駅と言われる「広野」(震災当時は「緊急時避難準備区域」。2011年9月30日に解除)。「郡山」「福島」「仙台」「松島海岸」「石巻」。広野駅と同様に原発の警戒区域から程近い「亘理」「相馬」「原ノ町」。もっと散策したかったが、ざっと主要な駅を挙げるとこんな感じだった。

4泊5日の旅だったが医師から処方されていた薬は1ヶ月分をありったけ詰め込んだ。

もうひとつ怖かったのは器質的な疾患だった。もし仮に旅行先でパニック症とは違う病気になってしまったら…想像しただけで怖かった。

話が逸れるが、以前テレビのインタビューで被災者が「こんな辛い毎日ならば、いっそあの時津波で流されて皆と一緒に死んでしまえば楽だったのに。」と涙ながらに応えているのを思い出していた。

自分は学生の時に父親が比較的若くして亡くなっているのだが、それは遺伝性があるかもしれないと当時担当医から指摘されていた。正直父親と同じような末路を歩むならいっそ安楽死か何かでパッと死にたい。そう思う事が度々あったので、何となく他人事のように思えなかった。今思えば、それが被災地に行こうと思うきっかけのひとつだったのかもしれない。

≪1日目≫
上野(東京)→[常磐線]→泉(福島)

心中ばかり書いていてもキリがないので先に進むと、初端から失敗してしまった。

パニック発作のせいか地元の在来線に乗る事すらできず、30分以上ホームのベンチで抗不安薬をガリガリしながら落ち着くのを待っていた。青春18きっぷなので早く出発しないと鈍行ではホテルのチェックインに間に合わない。そんな焦りで余計に呼吸の乱れと動悸が酷くなった。

常磐線の普通列車でいわきまで行くつもりだったが地元の駅から電車に乗る事がなかなかできずにいたため遅れてしまい、結局上野から特急列車に変更しないと間に合わなくなってしまった。余計な交通費が必要になった事に少々落胆したが、自分にとっていちばん怖ろしいのは「特急に乗る事」だった。

当初の予定では普通列車でまったりと、仮に途中で発作が起これば知らない駅でも降りれば良いとそう思っていたのだが、特急でしかもほぼ最終に近い列車だったので「逃げ場がない」そう思った。しかし先の発作で服用した薬が効いていたのと、常磐線特急下り方面はほとんど人が乗っていなかったので意外と安心して乗る事ができた。

常磐線
誰もいない常磐線下りの特急列車内

夜の22時過ぎ、ようやくいわき市内のホテルに到着した。無事着いた事で安堵したのかもしれないが、何となく東京の人たちより駅員さんもホテルマンも優しいと言うかやわらかい感じがしてホッとした。

いわき市
宿泊を歓迎してくれたウサギさん

素泊まりだったので近くの…と言っても何もない所だったので何分か歩いた場所のコンビニにカロリーメイトやチョコレートなどを買いに行った。
メディアでは放射能がどうだこうだと騒がれている割にはコンビニのおにいちゃんは若くて爽やかだし深夜にも関わらずお客もそれなりにいて、変な話ちょっと拍子抜けした。

空も星も空気も綺麗だった。後で調べたら確かに放射線量は東京と比べるとかなり高い地域だった。何となく切なくなった。

少し開放的な気分になって旅を楽しめるようになってきた。やはり薬は手放せなかったが「明日が楽しみだな」と思う自分がいた。しかし、やはり穏やかな事ばかりではなかった。コンビニから帰り少し部屋でくつろいでいる早々の内に地震(余震)がきた。

体感震度は怖かった。けれどもテレビでは震度1とかそんな程度だった。ひとり旅なので「こわい」と訴え共感し合える相手もおらず、急激な孤独感に襲われた。

テレビ、持参してきたノートパソコン、携帯、照明とありとあらゆる物を使って意識を他に飛ばそうとした。しかし、初日の疲労と薬の作用で1日目は比較的楽に眠れた。

≪2日目≫
泉(福島)→[常磐線]→いわき→[常磐線]→広野→[常磐線]→いわき→[常磐線]→四ツ倉→[常磐線]→いわき→[磐越東線(ゆうゆうあぶくまライン)]→郡山→[東北本線]→仙台(宮城)→[仙台市営南北線]→勾当台公園

2日目は同じく常磐線で、原発の警戒区域ぎりぎりの駅「広野」に向かう事にした。野次馬根性なのか、理由は今でもよくわからない。

いわき市,泉町
泉駅を出発前に撮影した地元の案内看板

東北,電車
東北,電車
停車していた車両には東北応援のロゴが

ちなみにいわきは地方都市といった感じだったが、やはり閑散とした雰囲気は感じた。それでも中高生が笑いながら楽しげに歩いているのを見かけると、真実だとか真相だとか難しい理屈は何だかよくわからなくなってきた。

いわき駅
いわき駅
当時のいわき駅周辺

原発事故後、広野は事実上の終着駅だった(2011年12月当時)。近くには有名なJヴィレッジがある。

福島県,広野町
広野町を紹介する大きな観光案内板がお出迎え

商店街はほぼシャッターを閉め、近くには学校がある様子だったがこどもの姿はない。人は全くいない訳ではないが、誰かがいると目立つくらいだった。駅周辺を一通り見て回ってから太平洋側に向かった。家はほとんど流されたような形跡で雑草だらけだった。

福島県,広野駅
福島県,広野町
広野駅と商店街にはほとんど人の気配がなかった

ボランティアや行政の手が入ったお陰か道路は舗装されていた。しかし、ところどころ生活用品が泥にまみれて埋まっている。家もほとんどなく人もいない。半壊したお墓が寂しく立っていた。発作が出始めて抗不安薬を舐めた。

福島県,広野町
泥だらけになったおもちゃが当時の凄惨さを物語る

太平洋が一望できる所まで来た。よく晴れた日だったのでとても綺麗だった。生きているという感じがした。しかし、この海に手を入れる事も足を浸す事もできない。そう思うと何とも言えない気分になった。北側に火力発電所が見えた。潮風が心地良かったが、おそらく世界でいちばん嫌われる潮風かもしれないと思うと海が不憫に感じられた。

福島県,広野町
たまに曇天だったが晴れ間が出て水平線が見えた

福島県,広野町
福島県,広野町
左側に見えるのが広野火力発電所の煙突

崩れた防波堤の下に分厚い本を見つけた。広野の行政が民間企業に委託した何かの設計図らしい。津波の被害で流されてふやけてしまったようだ。

福島県,広野町
福島県,広野町
海水に浸ってそのまま潮風で乾いてしまった資料

ストレスか慣れない寒さで冷えたのか、その後腹痛と軽い下痢に悩まされてしまった。東北の車両には普通列車でもトイレが設置されているが、腹痛が恐怖に変わり発作に移行してしまいそうなのを何とか食い止めるのに必死でトイレの有無はあまり有難くなかった。

2日目はその後仙台のホテルに行く予定だった。経由としては、いわき→郡山→福島→仙台。腹痛で発作が起こりやすくなってしまったせいで、福島から仙台に行く貴重な普通列車を途中で降りるはめになってしまった。1時間以上知らない駅の待合室で落ち着くのを待った。不安になって親にも電話をかけてしまった。いい歳して何をしているのかと素直に悲しかった。

待合室で偶然居合わせた地元の女子高生と話す事ができた。「話題の中心が何で東京ばかりとは思う」という率直な言葉が忘れられない。あまり踏み込んだ事は聞かなかったが、地元の人間と離れた所の人間とでは原子力発電所や震災に対しての考え方や捉え方のようなものに少し相違があるのも理解できた。

何とか仙台に到着すると粉雪が舞っていた。東京だったら傘を差しても良い程度だったが、現地の人はそのままだった。

ホテルに着くと昔ながらのビジネスホテルだったので「お疲れ様でございます」とかなり丁重にもてなされてしまった気がした。心の中では「仕事じゃなくてリハビリみたいなもんなんだけどな」と卑屈になっている自分がいたが、とにかく早く部屋で落ち着きたかった。

≪3日目≫
勾当台公園(宮城)→[仙台市営南北線]→仙台→[仙石線]→松島海岸→[代行バス]→矢本→[仙石線]→石巻→[仙石線]→矢本→[代行バス]→松島海岸→[仙石線]→あおば通→[仙台市営南北線]→勾当台公園

3日目は石巻に行く事に決めていた。が、前日の腹痛が響いてなかなか外出に踏み切れなかった。

昼の12時になり付けっ放しにしていたテレビにはいいともが映っていた。いつもは何気なく流しているだけなのに、その時はとても安堵した。

しかし、腹痛と吐き気と過呼吸は突然容赦なく襲ってきた。朝から食べた物といえばカロリーメイト2本のみ。何が原因かもわからず、とりあえず薬を飲んだ。ここが自宅なら母親に冷たい水や濡れタオルを頼むところだが、もちろん誰もいないので近くに置いていたぬるいウーロン茶で耐えた。親や誰かがいないと水すら調達できない事を身を以て痛感し悲観した。ベッドにもたれ「フヒューフヒュー」と言っている自分はさぞ滑稽だろうなと思って気を紛らわすしかなかった。

いいともでごまかしながらフヒフヒ言う事30分くらいか。何となく発作も落ち着いてきたので…また親に電話をかけた。自分は翌日に郡山のホテルを予約していたのでどうしても当日中に石巻に行きたかったが、既に昼の13時を過ぎていた。親は無理せずそのままホテルで寝ていろと強めに言ってきたが、適当にごまかして電話を切ってしまった。

仙台から石巻に行くまでには仙石線を使うが、松島海岸から矢本という駅までは震災の影響で路線が復旧しておらず代行の臨時輸送バスで移動する。1時間に1本程度なので、せっかく観光旅行に来たのにこれが意外と1分1秒の争いだった。混んだ電車は嫌いだが山手線の有難さを噛み締めた瞬間だった。

自分が利用していたホテルは仙台市の青葉区内だったが仙台駅からは少し離れていた。そのため地下鉄に乗る必要があったがこれが意外に難関だった。雰囲気が東京の地下鉄とよく似ているので不安を煽られた。本数は多いが何本も見送っていては石巻に着けなくなるか、もしくは着いても仙台に戻ってこられなくなる。

とりあえず冷たい水が欲しかった。だがホーム内には自販機がなく、買うとしたらいったん改札を出なくてはならなかった。1~2分間隔の駅を2駅乗る程度なので、抗不安薬を唾で飲んだり舐めたり(このような描写が度々ありますが本当はダメです)して落ち着くのを待った。音楽を聴きながらホーム内のベンチでじっとしていた。

ようやく発作も治まったので仙石線へ向かった。薬も効いてきたので松島海岸まではすんなり乗車できた。松島は寒かったけれど凛として美しい景観だった。

そこに子連れの家族がいた。こどもはまだ5歳かそこらの男の子だ。その子は母親に「ねぇ、あそこまで津波きたのー?」と遠くを指差し無邪気に聞いた。母親は特に何かを教えている様子ではなかった。

松島海岸
右手に待機しているのが臨時代行バス

改札を抜けるとすぐに代行バスを案内してくれる係の人がいた。代行バスは都内のノンステップバスやクリーンバスのような車種と違い、修学旅行や遠足に使われるような高速用の巨大なバスだった。電車の代行なので当然ではあるが、正直面食らってしまった。自分は車酔いもするから、あの手のバスは見ただけで気が滅入ってしまうからだ。

1時間ほどバスに乗る必要がある事はわかっていたので、酔い止め薬を飲んでおいた。何となく酔う事はなさそうだったので、とりあえず初めての代行バスを謳歌してやるぐらいの気合で臨んだ。しかし、車窓に飛び込んでくる景観は時折凄惨なものだった。

斜め前の席には高校生らしき女子学生が座っていた。音楽か何かを聴きながら何もない所を見ている。首都圏のダルそうにしている学生と何ら変わりなかった。

代行バス
バスの中から女子高生が眺める外の景色

とある停留所で隣の席に女性が座った。何かの拍子に持っていたデジカメを落としてしまったところ「取材ですか?」と聞かれたので観光である事を伝えてから少し話をした。

海も見えない場所にも拘らず太平洋側から一気に津波が押し寄せ、家屋の1階は完全に沈んでしまったが何とか逃げ出す事ができたそうだ。

友達の娘さんが津波に流され亡くなったという。その友達には最近になって会いに行ったそうだが憔悴しきっていたらしい。

「あんな状態を見るなら会いに行かなければ良かった。あの人、今頃寝込んでるんじゃないかしら…。」

前の座席に頭をもたれて辛そうに語ってくれた。かく言う女性もかなり滅入った様子で、少しの瓦礫と朽ちた木や草で荒れ果てた太平洋側の風景を何かを探すかのようにずっと眺めていた。

そこは元は田んぼだったそうだが海水が浸かってしまったため土壌が全滅し、夏の間に人の手も入らなかった影響で雑草だらけになってしまったという。自分は雑草をススキと勘違いしていた。恥ずかしながら田は海水に特に弱いという事をこの時に初めて知った。自分にとっては単なる荒地に見えたが、現地の人にとっては全く違うのだ。

そんな状態を見て私は何も言えなかった。「頑張れ」とか「絆」とか薄っぺらい言葉だけの慰めなど偽善も甚だしいとしか感じられなかった。

―現実はずっと残酷で生々しい。

途中ひしゃげた線路やガードレール、無人でボロボロの戸建などが見えた。自分の暴露療法に被災地を利用して良いのかと自問自答もした。ひとまず石巻まで酔い止めは良く作用してくれた。

石巻に着くと既に真っ暗だった。驚いたのは学生が多かった事だった。NEWDAYSで肉まんを買って急いで電車に乗り込んでいた。人も少なくはなかったが商店街は震災の名残がちらほら感じられた。線量が高いと言われてる地域でも高校生がたくさんいて、コンビニの肉まんや自販機のあったか~いを飲み食いしながら1時間に1本の電車を待っていた。バスや電車を利用しているのはほとんど学生だ。

石巻駅は石ノ森章太郎の萬画館(石ノ森萬画館)や石巻マンガロードなどでも有名なので駅構内や駅前、商店街には至る所にモニュメントやイラストがあった。自分は60~80年代の漫画やアニメも好きなので不安などは吹っ飛んで夢中で散策していた。

石巻駅
駅構内に設置されていた仮面ライダーとサイボーグ009

途中、プレハブで店を営業している仮設商店街があった。夜で暗かったからというのもあるが何となく普通の光景にも見えた。

石巻
石巻
石巻立町復興ふれあい商店街

道路の補修工事をしている更に先に行くと、旧北上川にかかる西内海橋に着いた。駅まで浸水させた川とは思えない程に穏やかで静かだった。

石巻
車が多く走っていたので暗闇を徒歩で移動するのはやめた

寒さが応えてきたので戻る事にした。途中で商店街の地図を見つけたが、ほとんどマジックで塗り潰されていた。

石巻
震災による被害を静かに訴えかけているマップ

著名な漫画家が寄贈したらしいイラストの展示をみつけた。津波の影響か土砂で流された跡があり、イラストを囲うプラスチック板は一部大破していたが、盗むような人もいないとみて放置されているような有様だった。

こんな素晴らしい原画やイラストが砂埃でまみれたまま、誰にも見られる事なく寒空に晒されていると思うと悲しかった。それこそ人命に置き換えて考えたら正直ぞっとした。

石巻,赤塚不二夫
石巻,やなせたかし
石巻,水木しげる
石巻,モンキーパンチ
赤塚不二夫(左上)とやなせたかし(右上)
水木しげる(左下)とモンキーパンチ(右下)

何となく釈然としないまま駅に戻った。時間がぎりぎりでNEWDAYSは1時間に1本の電車を逃すまいと学生などで行列だった。あまり焦ると発作が出そうだったので楽しい事だけ思い出すようにして電車のドアのボタンを押した。東北の電車はエレベーターみたいなボタンを押して自分で開閉するのも、今更ながらカルチャーショックで面白かった。

電車の中では中高生が受験の話をしていた。口調も「おい、お前どこ受けんだよw」みたいな日常の光景だった。学生がわんさかいた地域の線量は東京の10倍はある。直ちに影響はないとしても漠然とした不安を抱えて毎日学校行っているのではないのだろうかと思った。

思春期で少々尖っている男子学生がいて、友達が絡んでも「知りません。」などと言ってわざと無視していた。「お前無視かよーw」と言われて笑われていたが、その学生さんが携帯を落としたので拾って渡したところパッと顔がほころんで「ありがとございまs…」と恥ずかしそうに返事が返ってきた。

「“被災地”って何だろう」と考えされられる一幕だった。悲惨な光景ばかり切り貼りして他の地域に恐怖心や偏見を植え付けるような、そんなマスコミなんかのやり方を気持ち悪く感じた。

松島海岸に着くと粉雪が舞っていた。何故かホームにお米が落ちている…と思ったら雪だった。試しに足でぐりぐりやってみたが何故か溶けない。ベチャ雪しか触った事がなかったので雪の概念を覆された。

松島海岸
夜も凛として美しい松島海岸

マンガッタンライナー
マンガッタンライナー
ロボコンと『八百八町表裏化粧師』花火
のマンガッタンライナーに遭遇

酔い止め薬と抗不安薬の相互効果は絶大で(同時服用が良いかどうかはわかりません)少し朦朧としていた。多量の薬に依存するのは良くないが、そうせざるを得なかった。

仙台に戻ると表参道のような電飾が施されていた。少しホームシックも手伝ってか何かと東京に例える事が増えていた。巨大なツリーもあってテンションも上がったが、疲れてホテルに直行した。電飾の写真を撮って親に送った。

仙台,定禅寺通り
定禅寺通りの「SENDAI光のページェント」

少し休んでから勾当台公園の方を散歩してみようと思っていたが、ベッドで横になっていたらすぐに眠ってしまった。ココアやチョコレートなど胃を荒らしやすい物しか口にしていなかったので、そろそろ胃痛なども酷くなってきていた。

おもむろにテレビに目をやるとまた地震速報が出ていた。福島でもそうだったが地震が起こるとL字型画面はすぐには消えない。東京では数秒出す程度だが、やはり地域の危機感の差のようなものを感じた。

≪4日目≫
勾当台公園(宮城)→[仙台市営南北線]→仙台→[常磐線]→岩沼→[代行バス]→亘理→[常磐線]→相馬(福島)→[常磐線]→原ノ町→[代行バス]→亘理(宮城)→[常磐線]→岩沼→[東北本線]→福島(福島)→[東北本線]→郡山

4日目、仙台での2泊を終え昼頃出発した。次の行き先は相馬方面にした。

常磐線は東京方面から仙台まで続いているが、原発の影響で広野~原ノ町区間は運行していない(2020年3月14日に全線運行再開)。今度はいわきから広野ではなく、仙台から原ノ町に向かう事にした。原ノ町も広野と同様に事実上の終着駅である訳だ。

仙台でお土産を買って亘理行きの常磐線に乗った。亘理から相馬までは再び代行バスで移動する。相馬から原ノ町までは電車の運行が再開していた。あまりに不便なので頭がこんがらがってきた。

仙台駅
当時の仙台駅

石巻に行くまでの過程で代行バスには慣れたつもりだった。しかし原発被害は津波被害と同等に、もしかしたらそれ以上に周囲をとんでもない状態に陥らせていた。津波で流された家々や公共物も、そもそも原発の影響で立ち入れず人の手が入らないので完全に放置されている。

何もない土地に一軒だけぐでぐでの戸建を発見した瞬間に嘔吐中枢を刺激された。急いで、しかし平然を装って窓のカーテンを閉めた。広い車内の死角になっていたのでとにかく楽な姿勢を探した。聴いていた音楽のボリュームを上げ、ベルトを緩め、腹をつねり、手のツボを引っ掻いた。何も食べていないのにまるでエイリアンでも吐き出すかのような苦しさを味わった。

動悸と呼吸の乱れと吐き気と眩暈が全て同時にやってきた。しかしそれは漠然とした不安ではなくて、その景観に対しての明確な恐怖だった。自分は何て怖ろしい所にいるんだろうとさえ思った。しかし誰もカーテンを閉める人はいなかった。

相馬には新地発電所という火力発電所があるらしい。相馬バイパスを走っている時に立ち入り禁止の検問のような所を過ぎた。

発作が治まった安心感もあってか自分は泣いた。どうして日本にこんな場所があるのかという事への憤りや、自分の無知さや無力さや情けなさが一気に噴き出たようだった。何が善いとか何が悪いとかの問題ではない。ひたすらに悲しかった。

相馬はバスと電車の乗り換えで下車するのみだった。原ノ町は広野よりは原発から離れた駅のようだが、原発の北側に位置しているので南からの風で放射能が運ばれてくるらしい。専門的な事はよくわからないが、街の様子はやはり閑散としていた。

相馬市,原ノ町駅
相馬市,原ノ町
相馬市,原ノ町
この辺りは相馬野馬追で有名

次の電車が来るまで街を散策する事にした。やはりどの駅でも中高生が多かった。次いで高齢者で、こどもの姿はなかった。建物はたくさんあるのだが、スーパーは臨時休業で遠くにある病院は開いているようには見えない寂れぶりだった。田舎だからか、それとも…現地の人に聞く度胸はなかった。

駅に近いコンビニに行ってみた。つい最近電車が復旧したとは思えない雰囲気だった。若者が立ち読みをしてたり、店長らしき人がアルバイトに指示していたり、お客の回転も意外に早くとりあえず普通だった。むしろ自分は何を期待していたんだろうと思うと恥ずかしくなった。

友人が「福島に行くならお土産はままどおるが良い」と言っていて「ヨークベニマル」なら何処にでも置いているというような事も言っていたので探してみたが、案の定というべきか店舗は閉まっていた。

相馬市,ヨークベニマル
臨時休業中で中を覗いても誰もいなかった

東北に入ってから必ずと言って良い程に駅前にはアイスの自販機(セブンティーンアイス)があった。だいたいその周辺で学生たちが話をしながら電車を待っている。何処もそんな感じだった。

―メディアで騒がれている放射能についてどう思ってるんだろう。

危険な地域と囁かれている場所ほど学生がいる事に違和感を覚えた。でも友達と楽しそうにじゃれている学生たちを見ていると、今すぐ避難しろとも、かと言って絶対に故郷を離れるなとも言えない。自分には何の権限もないが、よくわからないジレンマに襲われた。

この頃には自分の中でテレビやネットで得ていた情報との乖離が強くなってきていた。その後は郡山に向かわなければならなかったので、常磐線の旅も早々に引き上げた。石巻と同様やはり釈然としないままだった。

岩沼という駅で東北本線に乗り換えるために待合室で待っていた。そろそろ足が限界で階段を昇るのも辛かった。

ある男子学生が待合室に入ってきた。が、ドアを開けきってしまった勢いで自然に閉まらず戻らなくなってしまった。自分はドアにいちばん近い椅子に座っていたが、外を走る真っ黒い蒸気機関車のような貨物列車に気を取られていたのと、つい習慣で自動的に閉まるだろうと完全に無視した格好になっていた。すると同じ待合室にいた女子学生が少し不機嫌な様子でドアを閉めにきた。私も悪いのだが、男子学生は分が悪そうにしていた。そんなどうでもいい感じの日常の一幕が意外と印象によく残る。

東北,待合室
偶然撮っていた現場の待合室

郡山までの電車は疲れと酔い止めと抗不安薬の効果で爆睡だった。駅員さんに「終点ですよ」と起こされる程だった。郡山は内陸の方なのでとても寒く、残念ながらイルミネーションを楽しむ余裕はなかった。

水商売風の女性やお金持ちそうな中年男性がちらほらいた気がした。第一印象としては歌舞伎町ら辺を小さくしたような雰囲気の街だった。

ホテルに着いたらすぐにコンビニに行こうと思っていたが、震災に関するとあるテレビ番組に目を通してしまった。
それを見て、もしかしたら自分は被災地に赴く事でいわば「自分よりも不幸な人間」から何かを得たかったのだろうかと考え込んでしまった。不幸自慢になっても仕方ないが、自分も決して順調な人生ではない。それでも故郷を離れなくてはならなくなったり、突然何人もの肉親や友人を悲惨なかたちで失ったりという事はない。しかしひとたび発作が起こると震災なんてどうでもいいと思ってしまうのも事実だった。結局は自分がいちばん大事なんだと思った。やはり情けなさが残った。

時間もないのでコンビニに出かけた。何処のコンビニにも必ず置いてあった酪王カフェオレと酪王ハイ・カフェオレ(酪王乳牛の製品はとても美味しいです)が目に入った。

飲みたかったが胃が荒れていたのでコーヒー飲料は避けた。同時に「福島の牛乳は売れるのだろうか」と心配する自分に腹が立った。

もしかしたら地元では有名なのかもしれないが、郡山駅近くのファミマには一匹の野良猫が常駐していた。店員さんもわかっているようで、手すきな時には猫を眺めていた。自分は買っておいたクッキーでナンナン鳴いている猫を釣ってみた。猫パンチされたので更に近付いてみたら、雑誌の入ったビニール袋の尖った部分で体を掻いてきた。

―お前、一緒に東京に来るか?

とか適当な事を言いながらからかっていると飽きたのか防寒の為か建物の隙間に入り込んでしまった。そこには小さい皿が置いてあった。近隣の誰かが餌を与えているらしい。

―お前の住む所はここなんだね。

そうしみじみ浸っていると更に奥へと引っ込んでしまった。

年末なので忘年会か何かでお酒に酔った集団が多かった。新宿のゴールデン街や何処かの横丁みたいな雰囲気の場末のバーや風俗店が独特な味を醸し出している場所だった。

ホテルに戻ってからコンビニで買ったとろろ蕎麦を少しだけ食べ、食後すぐに動くと吐き気に繋がるので休んでからお風呂に入った。4日目にして疲労困憊、ろくに食事も摂っていないので浴槽でよろけた。出てからすぐベッドで横になり髪も乾かさずに眠ってしまった。

生乾きの髪の気持ち悪さと空調の感覚で目が覚めた。時間は深夜3時頃で何となく背中が痛い気がした。ゲップをするととろろ蕎麦の味がした。急に胃に違和感を覚え、また猛烈な吐き気と動悸が襲ってきた。この時が道中でいちばん辛かった。フロントに助けを求めようかとすら思った。

当時の)自分はすい臓に異常値が出やすいらしい。ストレス性のものなので器質的な異常はないのだが、もし今度こそ本当に急性すい炎にでもなってしまったらどうしよう。そう思うとすぐにでも東京に飛んで帰りたくなった。動く事ができないのでやはり近くに置いておいたウーロン茶で口をゆすぎコップに出して口内をすっきりさせた後に薬を飲んだ。とにかく楽になりたかった。

わざわざ東京から被災地に来てストレス性疾患により救急車で運ばれるという事だけは避けたかった。テレビの通販番組にあんなにも救われたのは初めてだった。パソコンでアニメも観た。音楽は聴けなかった。お腹はかろうじてさすれた。今にも嘔吐しそうな状態だったが、食中毒なはずもなく吐くのは嫌だった。

―もう二度とひとりでこんな事するもんか!

心の底からそう思った。

背痛と腹痛と吐き気と動悸、呼吸の乱れと戦う事2時間あまり。夜明けと共にようやく動けるようになった。乾かさずに寝ていたせいで髪はぼさぼさ。3時頃から一睡もしていないのでもうほぼ限界だった。

ここでまた地震が起こった。これもまた道中でいちばんよく揺れた気がした。よりによっていちばん酷い発作の時に体感震度3くらいの地震だなんて…と疲弊していた。だが発作のピークとはずれていたので何とか持ち堪えたが、慣れない土地で地震に遭うと緊迫感を煽られる。

パニック発作と地震を同時に経験して、その時は文章では表現できない様態で混乱していた。

いろんな感情が溢れていたが、今となってはあまり思い出せない。もしかしたら要はたいした事はなかったのかもしれないとも思う。

≪5日目≫
郡山(福島)→[水郡線]→水戸(茨城)→[常磐線]→日暮里(東京)

最終日。郡山の朝は霧が濃く、すぐ近くのビルのてっぺんも見えにくかった。

ホテルの近くに綺麗なネットカフェがあったので利用してみる事にした。小型のノートパソコンを持参していたが処理速度も遅くやや使いづらいので、最後に何か有力な観光情報でも得られないかと思いネカフェにした。

昨晩の発作で気持ち悪さが残り体力が低下していたので、ドリンクバーでリアルゴールド(過度のカフェインはパニック症を誘発すると言いますが調べたところリアルゴールドにはカフェインは含まれていないそうです)を飲んだ。とにかく栄養になる物が必要だと思ったが固形物は受け付けなかった。ネットでは特に有益な情報も得られなかったが、若い店員さんの東北訛りを隠しきれていない接客が妙に心地良かった。

旅の終わりにコンビニを覗いたらやはり酪王カフェオレと酪王ハイ・カフェオレがあった。お土産に買って帰ろうかと思ったが、暖房の効いた電車に乗る時間が長いので念のため諦める事にした。

郡山駅
当時の郡山駅

郡山駅の土産物屋を覗いた。調子が良くなってきたのでお菓子の試食をしてみた。他の人と同じように普通に食べ普通に美味しいと感じてみたかった。けれど、暖房の独特な感じと口の中に広がる甘さで急に吐き気がした。「だいじょうぶ…だいじょうぶ…」と思って普通に買い物を続けようとしたが、眩暈に移行したので断念して店を後にし外の空気に当たる事にした。

薬を飲みながら外のベンチで休んでいた。郡山と水戸を繋ぐ水郡線で東京に帰ろうと考えていたが、直通の電車が発車するまではまだ時間があった。またネカフェか何処かで時間を潰すか、偶然駅前から見えたヨドバシカメラで新しいイヤホンでも買おうかなどいろいろ考えたが、調子が整ってきたので再び土産物屋に行く事にした。

フードコートがあったので何か飲みながら休もうと思った。喜多方らーめんがとても美味しそうだったが頼んでもほとんど食べられないし、直後に電車に乗ると思うとどうしても食欲に繋がらなかった。隣では学生が皆でらーめんを食べていた。自分も中学生や高校生の頃は繁華街のファストフード店で友達と雑談しながらよく食べていたのを思い出していた。

郡山でのお土産は何にしようと思って親に電話をかけたが、何かの拍子に口論になってしまった。

親が本当に心配してくれているのも、自分が酷い反論をしているのもわかっていた。ただお土産は何が良いかと聞きたかっただけなのに喧嘩になってしまった。

いらいらして電話を切った。口論だけで出発の時間を潰すには充分だった。水郡線に乗って、後は水戸を目指すだけのはずだった。

珍しい車両や最新式っぽい車内トイレを見付けたりして、出だしは何となく好調だった。ただ疲れていたので座りたいなと思ったが、空席がなかったのでドアにもたれて外を見ていた。さっきの親との口論を思い出していた。

次第に被害妄想と周囲の否定による自己の正当化で頭がいっぱいになった。と同時に溺れるような感覚に襲われて呼吸が苦しくなった。息ができない。吐きそうだ。倒れる。そう思って周囲を見るとひどく孤独で自分が自分でないような感覚(離人感)に陥っていた。要は発作なので抗不安薬を舐めたり水分で口を湿らせたりしたが、効果はすぐに現れなかった。

親を恨んでやると思った。近くにトイレがあったが電車の狭いトイレでは意味がなかった。アナウンスが入ったので次の駅で降りようと決めた。よろよろしながらドアの前に立ち、さも次の駅が目的地の人であるかのような振りをしていた。極限状態でもばかばかしいプライドは健在だった。

しかしなかなかホームが見えてこない。駅と駅の間隔が異様に長い事を悟ると、ますます発作は酷くなった。お願いだからここから出してくれ!死にたくない!!とリアルに叫べそうなくらいに錯乱していた。

ようやく電車が減速に入った。扉の開閉はボタンが光るとできるようになる。絶対にこの機会を逃すまいと光る前から連打していた。頭の中は「開け開け開け開け開け」の連続で、とにかく混乱状態だった。

何とか外に出る事ができ、駅員さんの笑顔にほっとした。しかし降りた駅はターミナル駅でもちょっと開発された所でもなくドがつく田舎だった。切符は一般家屋での委託販売。まるで映画みたいな田舎だった。

ある物は駅前に自販機がひとつ。改札はない無人駅。切符を確認した駅員は電車に乗っていた車掌だったのでもういない。郡山に戻ろうと思ったが発作の名残が酷く、せっかくの上り列車も逃してしまった。次の電車が来るのは1時間30分後。もう憔悴しきっていた。

再び親に電話をかけた。何もない誰もいない駅で降りてしまったと言った。まだ腹が立っていたので「歩いて郡山に戻る」と、どう考えても無茶な事を言った。親は「悪かった!お願いだからそこを動かないで、次の電車を待って!!」とかなり慌てた様子だった。それを聞いて「いい気味だ」と自分は思っていた。その時の自分は思考回路が完全にぶっ飛んだ単なる構ってちゃんで、もう自分みたいなダメ人間はどうにかなってしまえと自暴自棄にもなっていた。

宣言通り郡山方面に向かってやろうと試みたが、道を間違えて元居た場所に戻ってしまった。携帯のGPS機能を使って移動していたのだが、そもそも目印になるものがないのであまり役に立たなかった。

だんだん暗くなってきたので結局もとの駅に戻った。でも1時間以上寒空の外のベンチで待つよりは、動いている方が却って良かった。夕方なので下校する中学生や犬の散歩をしている人とすれ違う。大きな道路に出れば車も通っていて、ちょっとした帰宅ラッシュみたいな状態になっていた。

ようやく水戸行きの列車に乗れた。車内では寝ていたと思う。意外にすんなり水戸に着いた。人が多くて驚いた。

水戸駅前のスーパーを覗いた。いわきのスーパーには安い福島産の野菜が置いてあったが、こちらは海外産が目立った気がした。と同時に「帰ってきたんだな」と思った。人も歩くのは速い。よく喋る。正直「うるさい」と思った。

水戸から常磐線で上野方面に向かった。山手線に乗り換えて地元の在来線に向かった。人が多くて騒がしい電車は嫌でたまらないが、自分はここを離れて生活する事はできないのだろうと思いながら家路についた。

2012/1/11

ここまでご覧頂き有難うございました。

また、改めまして東日本大震災により亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。定型文で申し訳ありません。

人類の歴史を紐解いても天災や疫病による悲劇は幾度も繰り返されていて、現代の科学を以てしても自然がもたらすものを完全に未然に防ぐ事はできません。でも人間は歴史や過去の経験から学ぶ事ができると信じ「不安なのは自分だけではない」と自己に言い聞かせ、人間同士で争うのではなく自身と他者と真実に対して冷静に向き合える私でありたいと強く願っています。

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